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夢なのか現実なのかどちらか判別がつかないのだけど、リアルに居る古着屋のお姉さんとマッチングした記憶がある。とても丁寧な人で、上品である彼女は、美しいという言葉が似合う。言葉遣いも丁寧で僕が惹かれるには十分事足りる要素が溢れている。生活の端々に彼女がチラつくのは必然だ。古着屋に入る時が一層、彼女のことを思い出す。ハンガーラックに丁寧に並べられた古着を品定めしている時。独特のお香の香りが鼻の奥で揺らぐ時。頭蓋骨の内側にへばりついているかのように彼女は僕の思考にチラつく。彼女のことはよく知らない。だから好きなのだ。憧れは憧れでいい。勝手にふくらませた妄想を彼女の本性と照らし合わせることほどの愚行は僕にはできない。甚だする気もない。たまに見え隠れする気の抜けた瞬間がとても愛おしく思える。そこに幸せを感じているだけでいいのだ。人間味なんて醜いものばかりだから、美化したまま、目を瞑るのが最良なのだと私は思う。
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私は今とてつもなく虚無感におそわれている背後からでも、正面からでもなく、内側からじわじわと忍び寄ってきた。
人はゆっくりとした変化には鈍感だ。だからこそ気付いた時には大きな刺激がやってくる。茂木健一郎先生のアハ体験なんてそれの最たるものだ。
昔から変化を受け入れるのは苦手だ。不可抗力的な変化には順応せざるを追えないが、自ら変化を取り入れようとは到底思えない。天性のめんどくさがり屋が遺憾無く発揮されてしまう。こうすればもっと効率が良くなる!そういう謳い文句には多少惹かれるものはあるが、即実行できたり即効性がないとすぐにやめてしまう。そろりそろりと亀の歩みのような遅い進歩には私は耐えられない。刺激を求めているのは確かだ。いつも何かしら新しいことを求めている。好きなことに対しては進んで学ぼうとするし、習得が簡単なものはすぐに着手する。だがある程度定着して自分の中で確立している事柄はなかなか変化を受け入れることができない。柔軟性が乏しくなっているのだろうか、それともやはり面倒くさがりが顔をのぞかせているのか、はたまたその両者か、、
今こうしてタイピングしているのもそうだ。かれこれパソコンに触れ初めて10年近くになる私だが、未だにブラインドタッチができない。正確にいうと正しいブラインドタッチができないのだ。最近ランサーズという仕事を外注しているサイトがあるのだが、そこで簡単なアンケートに答えたり、モニターとしての感想を書くときなどに約1000文字近くタイプするのだ。やっているうちにしっかりとしたブラインドタッチができれば、もっと早く仕事をこなせるのではないかと思い。ブラインドタッチの練習をしてみた。が、一時間も保たなかった。やはり今までの癖付いた気持ち悪いへんなタイピングのほうが圧倒的にストレスフリーである。ストレスに弱すぎる私はすぐに諦めた。しかも誰かに強いられて学んでいるわけではないから余計にすぐ挫折した。普段タイピングで使うことのない小指を使うことに対するストレスは絶大であった。関節がギシギシと軋む。悲しい。。痛みとストレスに弱い小動物のようだなと、私自身を哀れんだ。
元のスタイルを変え、じわじわと慣れさせて、定着させる。文字に起こしたらとてもイヤらしい雰囲気が漂うな。だがそういうことなのだ。ゆっくりとした変化には気がつかないし、耐えられない。好奇心で受け入れる変化にはとても柔軟だが、それ以外はてんでダメだ。要は自分が必要としていないと何事も続かない。そうだと信じたい。冒頭の話と軸があっているようであっていない。やはり私は文章書くのが下手くそだ。こうやって駄文を書き記すことは全く苦ではない。むしろ楽しい
乱雑に自分の思ったことを書き連ねることができるのだから。何も気にしなくていい
ありのままだ。
ここから私が読者に向けてカッコいい文章を書き始めようと、斜に構えたスタイルになっていたら要注意だ。あ、こいつうざい変化しようとしているなと思っていただきたい。
最近はAmazonプライムで自己啓発本などを読んでいた、例えばホリエモンの「多動力」やデイルドーテンの「仕事は楽しいかね?」だ。
この2冊から学んだのは、「日々変化すること」、「時間は有限であること」、「様々な視点を持つこと」、「オタクになること」、「自分がやりたいことをすぐにやること」、「変化することを恐れないこと」などである。
すぐに実行できることから、そうでないことなど様々であったが、私は「時間は有限であること」についてが強く印象に残った。翌日から私はホリエモンの教えを全うするかのように、メールやLINEなどには即レスを心がけ、スキマ時間に読書や情報収集などを行った。
最初の数日それらを実行したことによって、今まで感じていた謎の不安感の正体は、時間の無駄遣いによるものだと分かった。
だがしかし、1週間ほどそれを続けていたのだが、またすべてのやる気が低下しているのを実感した。テスト週間のせいかとも思ったがどうやらそうではないらしい。そもそもテスト勉強をしない自分からしたら、テスト週間だろうが日常だろうがなんら関係はない。ではなぜやる気が低減したのか。
今日ふと気がついた。それは「時間を無駄にしないことだけを重視していた」からだ。本来の教えは「隙間時間にやるべき事をやる、仕事をためない、興味のあることをやる」であった。だが私は途中から「時間を無駄にしない」という事しか考えていなかったのだ。本末転倒とはまさにこの事である。目的が変わってしまっていた。時間という莫大な資源を無駄にしてはいけないという焦燥感で、楽観視することや、気を抜くということが出来なくなっていたのだ。そしてやる気の低下を引き起こし、1番時間を無駄にしていた。やっと気づけた。たまには息抜きも必要というのは、茹で上がった脳みそを冷やすためにも必要なのかもしれない。
知らぬ間に首を絞めている
今も尚締め続けている
自分では気がついていない
いや、自覚はあるのかもしれない
自ら足場を壊し
自立不可能な領域まで来ている
さぁ、ここでどう抗うか、逆らうか
それとも自らの言葉を飲み込むのか
吐き出すにはあまりに多すぎた
情報はいつしか錯乱し
足元を掬われる
吐いた言葉の重さを知らぬ
哀れな愚者に成り下がる
いつか殺しにくるそいつらに
膝を震わせながら
待っている
綺麗にあしらった仮面は
自我の中で装飾されてある
いつか鏡を見たならば
両目は塞がり、塗装は剥がれ落ちている
仮面の下の素顔には
誰も気付かぬままに
今日も定刻の授業に間に合っていない。
モノレールに座り、揺られ、欠伸をする。
書くことは何も無い。ただ何か文章を書こうという気持ちだけはある。
先日までの大雨と打って変わって、今日は憎たらしいほどの快晴。雲を探す方が難しいほどの。
いつものモノレールは心做しかゆったりした速度で目的地に向かっている気がする。とてもゆったり、のそのそと。
今朝の小さな悩みはアイメイクが上手くいかないことだ。腑に落ちない二重ラインに何度も首をかしげてしまった。明日はテープとノリを両方使ってみるとするか。
私が遅刻している授業は「マーケティング」。
割と好きな授業である。
だが午後からの授業は、時間に余裕があると錯覚しいつもより遅く起きる。何度も何度も起床の合図を拒みながら。
何十回目かのスヌーズとの起床攻防を繰り広げ、私がいつも負ける。
いや、予定より大幅に起きるのは遅いし、遅刻もしているから、ある意味私が勝っているのかもしれない。
好きな授業は遅刻してしまうくせに、火曜日の一限にある「英語」には毎回余裕を持って間に合う。なんだか皮肉めいている。
もうすぐ目的地の大学だ。こうやって空いているモノレールの時間は何か書きたいと思う。
それではまた。