上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

こうやってたくさんの下らない、誰に向けて書いているわけでもない文章は、未来の自分が見たらどう思うのだろうか。その好奇心から毎日こうやって文章を書き始めた。未来に向けた内容のない手紙をずっと書き続けている。
齢19の大学生が背伸びをして、文学に長けているかのように思わせたいがための言葉遣いで稚拙な文章をしたためる。なんの意味もないのだ。ただのゴミ箱である。
読者は居るか分からない。だがそれも気楽でいい。反応があったらむしろ書きづらい迄ある。誰宛でもない手紙を紙飛行機にして飛ばしている感覚。これがいいのだ。
この物思いに耽る時間は大切にしたいものである。
スポンサーサイト
最近は専らピアノインストをひたすらに聴いている。何故かは分からない。落ち着くから、とかそんな理由であろう。
信頼を置いている、何より激しく嫉妬している気の置けない友人に、私のお気に入りのアーティストを聴かせた、彼はあまり好きじゃないと答えた。おそらくその返しの真相は、技術の押し売りのような聴こえる。そういった類の理由であると思われる。
己だけの世界で聴いた時はカッコイイと思っていたのに、彼にそう言われてからは点でかっこいいと思えなくなってしまった。それは何故か。答えはこうだ、嫉妬と憧れの眼差しを持っている友人が否定したのである。
憧れのアーティストが、夏目漱石はださいとか言ったら、私の中で夏目漱石はダサくなってしまう。それと全く同じことが起こっているだけなのである。
それだけで価値観が変わってしまうのは本当に好きじゃない証拠、とか言われそうであるが。それも肯定できる。だが、そのグラグラの好き嫌いや、簡単に変わる価値観にこそ、愛おしさを感じる。
だがひとつ許せないのは、価値観の強要だ。例えばムンクの叫びをみて、これ見て何か感じ取れないやつはどうかしてる。とか言われたら腹が立つ。今なんとも思わないのは、なにか思う必要が無いからであって、その感情の内側を何故、他人にとやかくいわれ無ければならないのだろうか。
話を元に戻すと、好き嫌いや価値観は非常に曖昧である。それを明確に分ける必要も無い。それが揺らぐのも何ら問題は無い。だけど、一つくらいはずっと好きでいられるなにかは、やはり、欲しいものではある。
やるべき事と役に立つことは必ずイコールで結びつくものでは無い。
それは私が高校生活でやるべき事である勉強をそっちのけで、道楽に血道をあげていた。結果として今役に立っていることといえば、道楽から得た、問題を先延ばしにする能力と、教師のご機嫌をとるフワフワした態度である。そんなものである。
今もこの文章を講義を抜け出し、少しばかりの休息をとりながら書いている。
役に立たないことは案外役に立つかもしれないし、逆も然り。
やりたくないものはやり続けても仕方が無いと感じる。
不毛な時間の消費に感ぜざる負えない。
選択が自由に効く今はとても贅沢だ。贅沢な悩みがあって何が悪い。そう言いたい。
贅沢は当たり前になりすぎると贅沢ではなくなってしまう。明日からコンビニのアイスがハーゲンダッツだけになってしまったら、来年には嗜好品であったハーゲンダッツの影はなくなり、ガリガリ君のような贅沢とも感じない、ただの氷菓子に成り下がる。
相手の気持ちになって考えろとは、到底無理な話である。自分と相手では背負っているものや、考えていること、感じていること、まるっきり分からない。それを相手の気持ちになって考えろとは、少し、いやかなり傲慢なお願いである
そうではなく、自分に置き換えて考えろ。の方がわかり良いはずである。相手の気持ちになって考えろは、本来そういうことを示しているのかもしれないが、世の中阿呆ばかりである。言葉について真剣に考え込むことなんて、そうあることでは無い。そんな人のためにも、自分に置き換えて考えろ。こっちが市民権を得る方がよっぽどいいはずである。
話が逸れまくっているのはいるのは私の特徴として捉えてくれ。そこも愛して読んでくれ。
ともあれ、学んでいる経済学になんの意味もみいだせていないのである。それが言いたかったのだ。
今日は軽く二度寝をしたせいで、危うく遅刻しかけた。モノレールは毎朝少しだけ遅れているからそのせいにでもしておこう。
1限はあまりに理不尽な教科なので受講を放棄している。必修科目ではあるが、時間の無駄としか思えない授業内容で、来年の再履修で担当の先生を変える作戦を考えている。
2限はテストに向けた英作文を作成。来週はその英作文の発表である。スピーキングには自信があるが文章は覚えるのが大の苦手である。
お昼は構内のセブンイレブンで買った。店の前に出来た長蛇の列を読書をすることによって凌いだ。鶏そぼろ弁当と野菜ジュースと午後の紅茶。外がかなり晴れていたので、中央の広場のベンチで景色を楽しみながら昼食を済ませた。
3限は話す価値もない様な、講師も受講生も怠けている。そんな授業だ
4限のミクロ経済学。学籍番号で分けられているクラスで、私のクラスはいわゆるハズレの講師である。難しい言葉は分からないし、結論を出してからそれに付随する解説をして欲しいものである。あの講師の授業は暗闇で山登りをさせられている気分になる。要は筋道が分かりにくく、目的地も曖昧なものである。
最後に5限の企業経済学のテスト。出来は悪く、やる気がなかったので当たり前の結果になるであろう。単位が貰えれば実際なんでもいい。
二年時に上がってからというもの、勉強に対するやる気が圧倒的に、著しく低下している。逓減なんて生易しい緩やかな曲線でないほど。理由は明確だ。難しくてついていけなくなったのだ。だがそれを長く連れ添った彼女と別れたせいで勉強どころではなくなった、などとやる気が最底辺に落ちた時に、絶好の理由となるような出来事が起きた。それのせいにしている時はものすごく楽だったし、お先真っ暗な目先の逃げ道に逃げ込んでいた。あの美しい女性と円満に関係を終わらせた今となっては、理由もなく、ただ勉強がわからなくなったという現実しか残っておらず。それが放ったらかしにしていた夏休みの宿題みたいに、最後の週に必死で終わらせようとして、結局終わらないあの時のようである。
一年次の成績優良な私はどこへいったのやら、今では勉強できると装っているただの阿呆に成り下がってしまっているではないか。現実は受け入れたくないものである。
また今日の総括を帰りのモノレールの中で淡々と書き連ねている。昨日は家に着いてからは何もしていなかったけれど、今日はまだ6時だ。何かするだろう。と思いたい。書いたからにはなにかするだろう。主にテスト勉強とか。
今日は大学の授業をサボった。自立と体験だ。なぜサボったのかというと、眠かったし、行かなくても単位は確定していると思っていたからである。今までちゃんと受講して、ちゃんと実績を残しているから、行く必要が無いと思ったのである。何より眠かった。
結局、空腹と部屋の熱気で午後一時過ぎに目を覚ました。明日に控えたテスト勉強をするために、結局大学へと向かった。
大学の図書館は、テスト週間ということもあり、勉強スペースは埋まっていた。正確には1席ずつ開けて座る謎の風習から、その間に座るのは気が引けて座らなかった。
結局、構内のセブンイレブンでお弁当と野菜ジュースとモンスターエナジーを買って、食堂でYouTubeの動画を見ながら食べた。東海オンエアのUNOの動画だ。
その後はそのまま食堂で、友人の恋愛相談をちょくちょく挟みながら、企業経済学の勉強をした。勉強のしなさ過ぎで、分からないところはすぐに飛ばしてしまった。
結局午後6時すぎに図書館に行ってブログを更新して、本を読んだ。読んだ本は「いつかは別れる。でもそれは今日ではない」である。
その本の中にある「携帯を繰り返し触らなければいけないほど1人だと認めたくない。」。「眠れないのは1日に起きた出来事すべてに納得していないから。」という文章に驚いた。
友人にわからないことを聞いた。その見返りにご飯奢るよと言ったら断られてしまった。何だかすごく心臓がバクバクした。多分私から切り離したけど、向こうはまだ私と友達でいてくれているはずだと、都合よく考えていて、それがそうじゃなかったから、カウンターを喰らったのだ。それがバクバクの原因だと思う。
今は午後8時半。電車に揺られながら、この文章を書いている。
一日の終わりに書くものだろうけど、今書かないと忘れてしまいそうなほど些細なことしか起こってないから、今書いてあたかも充実していました。と自分に言い聞かせたいのである。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。